仕事中にはエゴの最小化、プライベートではエゴの最大化。今の時代、社会のありようが人に精神分裂を強いとるわな。
イヤな事はイヤとまず言おう。対案なんて後回しで良し!
こんな筈じゃない、こんな筈じゃないと呟き続け、もうこんな歳。 もうこんな歳、こんな歳と呟き続け、どう折り合いつけて老い死に行くのか、まだ不明。
自分自身が曲がり角にさしかかっていることに気づけばうまく角を曲がりきることができるだろう。 時代の曲がり角も同じことかも。
人は自分が見たい光景を見るために、自分や他人に対し簡単に嘘をついてしまうことがある。そうやって単なる憶測が「事実」に変わっていってしまう。
愛することと、依存とは違う。そして自立とは、一人きりで生きてくことと違う。
希望を失った社会。 手垢にまみれ、ふやけてしまった「希望」という言葉。 しかし希望が響く言葉を探る。
人に愛は届く。組織人(そしきびと)に愛は響かない。
テレビの無い生活には耐えられるが、音楽の無い生活は考えられない。
考えることは素晴らしい。 でも度が過ぎると妄想が暴走し現実認識が歪む。
自分が投げたボールはいつか自分に返ってくる。 たとえポジティブでもネガティブでも、投げたボールが返ってくることを知るのが本物の知恵。
コミュニケーションの意志の無いところに愛は育たないよ。
形のあるものは確かに大切だけど、形のないものとのバランスが大事。
内面は形に現れる。でもその全てではない。
祈りには力がある。特に謙虚さをまとった祈りには。
恋は苦しみを燃料に走る乗り物。 苦しみが消える頃、[退屈]を背景にした舞台で二人を主役にした[日常]という長い長い演目が始まる。
あきらめるには時間がかかる。でもあきらめてみたその先に花開く人生もある。
手のひらは口ほどにものを言う。小奇麗なだけの手のひらには旨味が不足。
人生は学びの連続だ。しんどいが、振り返ると愉快な日々。
自分にとって此処はずっと生きにくい場所だった。そんな生きにくさを解消してくれるような関係は残念ながらあり得ない。でも、互いの生きにくさを共有することは出来るよ。
キミがどんなに正しいことを言っていても、それが身体性を離れた単なるイデオロギーなら僕には受け入れることが出来ない。
啓蒙と、押し付けは、別モノ。「正義」を他者に押し付けることにもっと疑問を持ってほしい。
一人前になることと、しかめっ面が板につくこととは別。
感情は生かすもの、殺すものじゃない。怒り、悲しみ、後悔、喜び、どんな感情でも…。
未来を案じてジタバタする必要は無い。だって自分の潜在意識が全てを知っているんだから。
権威に認められることばかり考えてると、足元すくわれるよ。自分がいったい誰なのか探求してくことのほうがずっと大事。
生物多様性の大切さを経済性で見てる人たちは、人間の多様性を理解できないだろう。
21世紀の自己愛は、自分という小さな殻に閉じこもったものではなく、他者をも巻き込んだ、場の愛になる。
人は機械では無い。しかも機械でさえ歯車を回すのに遊びが必要だ。
情報は天下の回りもの。発信をケチれば入ってくる情報も貧しくなる。